祖母の最期
今年に入ってすぐに、母方の祖母が亡くなった。
晩年は施設に入っていて、近くに住む母が身の回りのお世話をしていた。可愛いおばあちゃまと言われて職員さんからも随分良くして頂いてようだった。
私や妹も帰省の折には祖母のお見舞いに行っては、大好きなパイン飴やひよこ(福岡銘菓)を差し入れして、一緒に写真を取ったり散歩に行ったりしていた。
といっても私に至っては帰省の頻度は低く、一年に3〜4回会えばマシ、という感じ。
おおらかな人で、ユーモラスで、毎週日曜日のミサ後のパチンコが趣味で、良く景品のお菓子を持って遊びに来てくれてたのが懐かしい。
私は子ども心に、
『神様とお話ししたりお祈りした後に、パチンコ行くのって、アリなのだろうか。神聖な教会と俗にまみれたパチンコって。。』と疑問に思っていたことも、今では懐かしい。
うちは父方の実家が仏教徒なのでそこに嫁いだ母もおのずと改宗(というほど大袈裟なものではない)し、子である私たち兄弟も仏教徒だ。
ここ数年の盆暮れには、祖母を一時帰宅で連れて帰ってきて、私の実家で過ごしていた。孫である私や妹はいたりいなかったり。去年の年末年末は兄以外の家族が勢揃いというなかなかレアな状況だった。
祖母との最期になった2017年の年末、私は年越しから温泉旅行に行く予定だったので、26日から30日まで帰省し、実家の大掃除を少し手伝ったり、家族で牡蠣を食べに行ったりして、29日に母と一緒に祖母の迎えに行った。
31日には妹が帰ってくる予定だったので、みんなで楽しく食べられて、母も食事の準備に追われるのを少しでも減らせると良いな思って、実は12月の半ばからネットでしゃぶしゃぶのお肉や蟹や、いくらや日本酒(正月用にと奮発して獺祭を選んだのに届いてすぐに父がペロリと飲み干していた)を購入して、年末に実家に届くように手配していた。
この年、北海道のいくらがものすごく高くて、ちょっぴりしか買えなかったのだけは今でもすごく後悔している。
祖母の大好物だったのだ。
『おばあちゃんが、ひよこを施設の職員さん達に配りたいって言ってるから、小さな箱で10箱くらい買ってこれない?』と帰省前に母からラインが入った。
これは妹にお願いした。
おばあちゃん子だった妹の、おばあちゃん孝行にはちょうど良い。
私は祖母とは2日一緒に過ごした。
迎えのメンツに私がいることに気づくと嬉しそうに私の名前を呼んで手を叩いた。
帰って来てたのか。
また孫の顔を見て年を越せるのか。
ありがたやありがたや。長生きはしてみるもんだな、って。
88歳の身体はあちこちにガタがきてたけど、頭はハッキリしていて呆けることもなく、たまに来る私と妹のこともしっかり区別がついていたし、私の従姉妹の子ども(祖母にとってのひ孫の)の顔もきちんと覚えているらしかった。
家に帰って来ると、リビングのテレビの前に備えつけられた祖母専用ベッドに腰掛けてひとしきりペットの小型犬と挨拶がてら遊び、
みんなでお茶を飲んだり、特番を見たり、年末年始のあの独特な雰囲気を存分に楽しんでいた。
うちの食卓の椅子にはキャスターがついているので、食事やお茶の時間のたびにその椅子を祖母のベッドまで持って行って、車椅子みたいにしてガラガラと祖母を運んだ。
もう自力で立って歩くのもけっこうしんどかったのだ。
食欲は旺盛だったし、夜にはコップに1センチ注いだ日本酒を美味しそうに飲んで、食後には私が祖母用に買ってきたひよこも何個かつまんでいた。
たまにめちゃくちゃ意味不明なジョークを飛ばしては大笑い。
自分の年をなぜか3歳年上にサバ読みするのは祖母の鉄板のジョーク。
1月おわりが祖母の誕生日なので、次で何歳になるの?と私たちが質問をすると、92歳☆と意味不明なサバ読み年齢を披露しては笑った。
もうその年になったら89も92も大して変わらないから!と母から盛大にツッコミを受けるのも恒例。
食事や着替えを母の見よう見まねでちょっと手伝うと大袈裟なくらいお礼を言う。
そんなことでいちいちお礼なんか言わなくったって良いよって。
たまに来る私ができることなんてこれくらいしかないんだから。
ペットの小型犬にしれっと果物やお菓子をあげていることも、ちゃぁんと知っていたけれど、この時だけは家族も知らぬ存ぜぬで通すので、うちの犬は祖母のそばから離れようとしない。
30日のお昼頃に私は帰るねって伝えると、そうかぁってちょっと寂しそうにして、母に自分の財布からお金を出すように言った。
『◯◯ちゃんにひよこ代渡して。』
(お年玉と言ったら、私が拒否するかもしれないと心配したのかも)
いらないよ、と言うのに、
母が『受け取ってあげてよ。ばあちゃんが次からひよこ頼みにくくなるじゃない』って、笑いながら私に手渡してくれた。
しわしわのばあちゃんの手を握って、しばらく隣に座って喋った。
もう帰るのかー。
うん、でも明日になったら妹が来るからまた賑やかになるよ。
(私よりも数倍、妹の方がばあちゃんとは仲良しなのだ)
また来年みんなで楽しく年越ししたいね。
イクラもたくさん買っておくね。
職員さんに配るひよこは明日妹が買って来るからね。
毎日お世話になってる施設の職員さんとなぁ、たまぁにしか来ないけどお世話をしてくれる職員さんに帰ったらあげたいんよ。
いつもお孫さんからひよこ貰って良いねーって、みんなが言うんだ。
お世話になってた神父様にもあげないとなぁ。
次はいつ帰ってくるんか?
お盆は帰って来るけど、その前にもちょくちょく遊びに来るよ。
そうか、元気でなぁ。良いお年をなぁ。
ばあちゃんもね。良いお年を。
風邪とかインフルエンザとか気をつけてね。
そんな感じで別れたと思う。
それから妹が私と入れ違いで帰省し、私が頼んでおいたしゃぶしゃぶやら蟹やらを盛大に食べ散らかしていたようだ。
(なぜ頼んだ本人の私は、このご馳走を一口も食べてないのかと写真を見て悔やんだ。)
母や妹からのラインで、
祖母がイクラを美味しい美味しいと言って食べてたこと、祖母と楽しい年越しだったことを、温泉宿で知った。
新しい年になって、私は20年ぶりのインフルエンザで一週間仕事を休み、ようやく日々のリズムに戻って仕事をしていた頃、祖母危篤の知らせが入った。
施設で前日からずっと頭が痛いと言っていて鎮痛剤を飲んでたけど、翌日の夕方にもやっぱり痛いというので家族に連絡してかかりつけの病院に連れて行ってもらおうと連絡のやりとり中に意識をなくしたらしい。
母がかかりつけの内科に電話をし、祖母を迎えに行く準備をしている時に、急変してすでに救急車で別の病院に行っていると連絡を受けたそうだ。
私や妹に連絡が来たのは夜の19時頃。
くも膜下出血で今手術中という時だった。
手術がうまくいっても意識はこのまま戻らないかもしれない、と。母は泣いていた。
すぐに妹は仕事の調整が取れ、先に一泊で地元に戻った。祖母の様子がどんなだったか聞くと、たくさんチューブに繋がれてて眠ってるみたいだった、自分もそばにいれたのは10分くらいだった、と。
そのあとようやく調整が取れた私も二泊で帰省。(なにせインフルエンザで休んだのでツケがあり。。。)
私は、祖母の容態ももちろん気がかりだったけど、母のことも心配だった。
年末に会ってまだ一ヶ月も経ってない。
会うと母は思ったよりも元気そうだった。
空元気だったのかもしれないけど。
私が実家に着いたのは夜だったのでそのまま実家で過ごし、翌日は溜まっていた家事を一気に片付けた。
やはり危篤の家族がいるときは、家事もままならないみたいで、祖母のところへ早く行きたい気持ちもあったけれど、少しでも母には休める時にゆっくりしていて欲しいと思った。
昼過ぎの面会時間に合わせて病院へ。
その前にランチで母とできたばかりのカフェへ。
食事が喉を通ることにホッとして、祖母が運ばれたときの様子を聞き、母は祖母の意識が戻るのではと希望を抱いているようだった。
そういえばICUに入るのは初めて。
たくさんの機械に囲まれたベッドに横たわっていた祖母は、一ヶ月前に会った祖母とはぜんぜん違う人みたい。
それでも私が想像してたよりも顔色は良いように思って、私はちょっとホッとした。
母は祖母の耳元で呼びかけて、私が来たことを知らせている。
『一昨日、妹が来た時は、もっとこう顔も別人みたいにパンパンに浮腫んでて。妹は会った瞬間にばあちゃん!!って泣き崩れたのよ。でも、今日はかなり良い感じだね。』
祖母の腕には点滴が刺さっていたので足をさする。
あの後実は頭の血管が切れたらしくて、すぐに二度目の手術をしたの。
くも膜下の手術から時間があいてないから、手術するにもばあちゃんの体力がもう持たないかもしれない。仮に二度目の手術が成功しても、もう目を覚まさないかもしれない、目を覚ましたとしても今までの生活はできないかもしれないと言われた。だけどお母さんはばあちゃんの手術をしてくださいって主治医に頼んだの。
目を覚まさないかもしれないっていうのは、もしかしたら目を覚ますかもしれないってことだもんね。
目を覚ましたら私たちのこと分かるかな。
施設に戻るには自分の口から食事を摂ることが大前提なんだけど、大丈夫かな。
母の話をつらつらと聞く。
こんな時娘は無力だ。
でも、と、私の口が開く。
また次の年越しみんなでしようねって約束したから。
大好物のイクラ、また買っておくねって約束したばっかりだから。
なんだかんだで目、覚ますんじゃない?
おーーーい。
ばあちゃーん。
私だけど、分かる?聞こえる?
頭痛かったね。もう大丈夫だよ。
担当の看護師さんが来て、挨拶。
意識はなくても耳は聞こえてるからたくさん声かけしてあげて下さいと言われる。
看護師さんも、
◯◯さーん!今日は別のお孫さん来てくれてるんだねー!娘さんは毎日来てるよー!と一緒に声をかけてくれる。
しばらくハンドクリームを塗ったり、手を握ったり、足をさすりながら、ばあちゃんに話かけ続けていると、
一瞬。
ばあちゃんのマツゲが震えたのを、母と私は見逃さなかった。
『看護婦さん!今!!マツゲが動きました!!
ピクピクって!ちょっとだけ瞬きみたいなのがありました!!』
娘さんとお孫さんが来てるのが分かったのかもしれないですね。よかったですね。
母もすごく嬉しそう。
20分の面会時間はあっという間に終わって、自宅へ戻ることに。
もしかしたら目を覚ますかもしれないねと言い合いながら、妹と父にもさっきあったことをすぐさまライン。
あなたが来たときにだけ反応見せるなんて、と母は頓珍漢な嫉妬心を見せていた。
翌日、
今日も病衣に行くかと尋ねられたけど、また年越し会う約束したし片道1時間近くかかるから良いよと断って、母を休ませて溜まった家事。
夜ご飯にキムチ鍋を作ってから、そろそろ帰るからタクシー呼ぶねと一声。
母は心底ほっとしたように、良かった、車で駅まで送ってって言われたらそりゃ車は出すつもりでいたけど、ちょっと疲れが溜まってた、と申し訳なさそうにポツリ。
自分が疲れていても、人に頼まれると嫌と言えない優しい人なのだ。
疲れが取れ出ないように休めるときにゆっくり休むように伝え私は戻って来た。
祖母が亡くなったと知らせが来たのは、それからしばらくもしない一週間後の夕方。
私は、ゆったりした現場で自分の仕事にかかっていたのですぐに母からの電話に出ることができた。
昼過ぎに病院から呼び出しを受けた。
もうダメかもしれないから、ほかの家族も呼ぶようにと。
自分の兄と姉に電話をして駆けつけてもらった。
お医者さんからはとても優しく説明があった。
今夜が山場です。
延命という治療をすることはできます。
ただおばあちゃんにとってこれが続くのはきついかもしれない。
延命治療をしたからといって、今後意識が戻ることはほぼなく、本当に命を繋ぎ止めるだけです。
そう言われて、お母さんすぐに決断できなかった。
自分の姉と一緒にずっと泣いて、もうばあちゃんを楽にしてあげようかって、話をしながらまた泣いて、なかなか決めてあげられなかった。
お医者さんは、大丈夫です、すぐに決められることじゃありませんから。ってずっと隣で待ってくれてた。
お父さんがやっと仕事が終わって病院に着いたとき、たまたまばあちゃんのベッドにはお母さんとお父さんの2人しかいなくて、
お父さんが
ばあちゃん、遅くなってごめん。つらかったね、きつかったね。って最期の挨拶してくれてる時に、
つーって、ばあちゃんの目から涙が出たの。
お母さん、それを見たら、
あぁ、これはばあちゃんの最期の挨拶だ。
お父さんが来るまで待っててくれてたんだ。
私達の決断も分かってくれる、って思った。
幸い、その時の現場は超絶暇だったので、裏で携帯で話してても全く問題もなく、
20分くらい泣いている母の電話をうんうんと聞いてあげることができた。
その時私が純粋に思ったのは、これで祖母の介護や危篤から続いてた心労や、いつ死ぬかも分からない不安から、母がようやく解放されるのだということと、
痛みや苦しみからようやく祖母も解放されて、20年前に亡くなった祖父のところに逝けるのだということだった。
すぐに調整をつけて帰ることを伝え、斎場の名前と場所を聞いて電話を切り、
自分の上司とクライアントである現場の上長と自分のスタッフへ連絡。
クライアント側からは今すぐ帰ってよしのお言葉を頂いたけれど、私も一つの現場を任されているイチ責任者。
シフトを組み替えて、祖母の危篤時にも無理に休みを取ったのに、またすぐに一週間休みをもらうことに対してスタッフに謝罪をし、信頼のおけるスタッフには残りの仕事をお願いした。
同時に頭の中ではシフト通りに上がって、いったん帰宅してから準備をし、タクシーで博多駅まで飛ばしたら最終の特急に乗れることを計算。
妹は仕事でどうしても翌日早朝にしか帰れないと連絡が来たので、待たずに私が一足先に帰ることに。
喪服はないのでとりあえず仮通夜とお通夜に大丈夫な服と黒のストッキング、母から貰ったパールをバッグに入れ、ホームで最終の特急を待っているほんの10分くらいに、ようやく祖母が逝ったという実感が湧いてきた。
この前会ったときはあんなに元気そうだったのに。
また次の年越しもここで過ごそうねって約束したのに。
もうすぐにばあちゃんの誕生日だったのに。
危篤でかけつけた病院では私の声に反応したのに。
こんなにもあっけなく別れが来るなんて、思ってもみなかった。
私の方が母よりも往生際悪く、もしかしたら、と考えていた。
ただ、もう少し一緒に、この現代において、
ほんのあと少しだけ一緒に、過ごせるんじゃないかと。
特急に乗ってからのことはあまりよく覚えていない。
地元の駅にあっという間に着き、残り少ないタクシーに乗って斎場の名前を告げた。
運転手さんは何か察してくれたみたいで、私でも知らない超裏道をクネクネと進み、私が思うより速く到着してくれた。
すでに24時。
仮通夜には誰が来ているのかも知らない私は親族控室の襖ををそうっと開けた。
ぎゃーはっはっはっはー!!
あれ?!
◯◯ちゃん!?!?
今着いたのーーー!?
こんな遅くにご苦労様!
寒かったでしょう!座って座って!
あ、ご飯食べる?って言っても私らの食べ散らかしばっかりだけど。
お茶飲む?
ビールが良いかー!
あ、ばあちゃんに会えた?
隣の布団に寝てるよ。挨拶して来たら?
すでにうちの親族は亡くなった祖母を悼んで酒盛りの真っ最中だった(笑)
さぞかし憔悴しきっているだろうと心配していた母も、久しぶりに会えた自分の従姉妹たちと楽しそうにばあちゃんの思い出話に花を咲かせていた。
婿である父や伯父達もすでにへべれけ。
なんっていうか。。。。
ほっ。
私も腰抜けそうだった。
父方の祖父母の葬儀はなんかもっと粛々としてたから。
キリスト教では亡くなった人は、イエス様のところにようやく行けたね、そんなに悲しむべきことじゃない、むしろ喜ばしいことだ、って感じの解釈なのだろう。
こんな賑やかな親族に囲まれて、隣の部屋にいる祖母の顔も心なしか嬉しそう。
祖母の周りには生前かわいがってた猫のぬいぐるみ各種、いつも食べてたパイン飴と黒飴。
そしてずっとお祈りしてきたマリア様の小さな置物とロザリオ。
私は閉まりかけのキオスクで買ってきた、ばあちゃんの大好きなひよこを置いた。
そりゃ母や伯母は葬儀と火葬の時は涙の爆発を起こしていたけれど。
私たちが泣きたかったより先に、母がぶわっと泣いてしまったので、どうにも涙を流すタイミングを失ってしまった。
キリスト教の葬儀は、仏教のそれとは全然違う。
今回は身内のみで斎場でやることになってたので、祖母の通ってた教会の神父様とシスター達に出張で来てもらいミサをしてもらった。
神父様はすごく穏やかで優しそうな人で、悲しみにくれる私たちの気持ちに寄り添いながら、祖母がどれだけたくさんの人たちに愛されて天国へ召されたのか、祖母が旅立った先にはイエス様が待ってくれていること、そしてこれは復活であるということなどをお話ししてくださった。
葬儀はとても厳かな雰囲気で進行する。
神父様と一緒にお祈りをし(もらった冊子の棒読みなのだけど)、ミサ曲もたくさん歌う(もらった冊子を追いかけるだけで実は大変)。
そんなこんなで、祖母は天国に逝きました。
ばあちゃん、最期に会えてほんとに良かった。
あの時もっと一緒にいれてたら、
あの時もう一度病院に行ってたら、
なんてタラレバの話はあまり好きじゃないから私はしない。
お互いがお互いの人生を一生懸命、楽しく生きながら、それでも思いやって数少ない時間を共有できた。
私はそれで良かった。
会えなくなるのはそりゃ寂しいけど、
悲しくはなかった。
祖母がいなくなってぽっかり心に穴が空いたような母の方が心配である。
ばあちゃん、またね。
私たちのばあちゃんで、ありがとね。
嫁入り姿も、ひ孫の顔も見せなかった私ですけれども、堪忍してね。
ばあちゃん、またね。